横浜でのプログラム作業は終わることになってしまった。このために引っ越してきて立ち上げたオバキューだったがいきなり暗礁に乗り上げ た。しかしこのプロジェクトの継続を打ち切られる際、僕の結婚式に来てくれた関西ワークス本社の役員と、その時のプロジェクトリーダーが、この状況を救ってく れた。代わりにコンシューマゲームのプロジェクトを立ち上げ、外注を操るそのディレクションの仕事を用意してくれるという。アウトソーシングというやつら しい。とはいえ、その仕事が用意されているわけでも、どこかから降ってくるわけでもないので、仕事を作るところから一緒にやらせてくれることになる。石橋 くんにはネットワーク系のゲームライブラリのプログラム仕事をあてがってくれた。これはまた別の話としてどこかで書いていきたいが、最終的に信用を大きく 落として僕は仕事を失った。残念ながら手伝ってくれた石橋くんも巻き込んで担当から外れることになってしまった。関西での徹夜上等での作業や根性論という ものが全く機能しなかった。

少ない人数で無理やり作り出す小さいプロジェクトに必要な根性と信用は、大きなプロジェクトで部品になりきることができた後に 役に立つことはあるかもしれないが、部品にもなれないやつがすることではなかった。これは過去10年やってきた小規模開発(※2)しか見たことのなかった僕にとっては全く未知の世界で、プログラムができることと仕事ができることは全然別のことだと思い知った。

し かし、関西ワークス社のお仕事のつながりで新しい仕事に隙間なくつなげてもらえたことで月間110万円の売り上げだけは確保できた。なんとかこれをあと2年つないでいくことができれば「夢の自社タイトル」に挑戦することができる。あと2年、もう失敗は許されないところに来ていた。